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2024-03

全国を前方後円墳で統一?大嘘 - 2021.10.24 Sun

お笑い番組のコント内で
生徒役が「前方後円墳」と答える場面を見かけたりする。
(ネルソンズの「うんこマン」ってコントだけど。)
せっかくなので、今週も考古学の話だよ。


「前方後円墳体制は」なかった!?
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-193.html

高校の歴史の授業なんかでは
奈良の纏向遺跡あたりに大和朝廷ができて
そこから全国に、前方後円墳の規格が
ひろがって行った事になっている。

前方後円墳を取り入れた地域は
大和の支配下に入った証拠、みたいに
言われている。

けれど・・・

前方後円墳は、奈良から始まったわけではなく
大阪・和歌山とか
京都・兵庫とか
滋賀・福井とか
三重・愛知とか
奈良から近い順にひろまったわけではない。

「神武東征」で方墳勢力と円墳勢力が統一された後に
「外部から奈良に入った」
と見た方が、実際に即している。

「奈良を拠点とした勢力が
全国を統一した」わけではないのに
机上の空論が先にあって
考古学の成果や神話伝承を無視している。
奇怪な状態。

学問上の事実よりも
「政治的」染脳が先にある。

だから、記事の分類を「学問」などにすると
専門家とか、マニアックな人だけしか目にしない。
多くの人はデマしか知らないまま。

普通に考古学をやっていると
前方後円墳は、むしろ完成期の古墳で
最後に古墳文化を受け入れたであろう
当時の辺境に圧倒的に多い。

その後でも、円墳、方墳、前方後方墳なども存在する。

そして、最終的には八角墳、寺と変遷して行く。
大きさも小さくなっていく。

1 千葉、2 茨城、3 群馬の次に多いのは
4 奈良、5 福岡、6 鳥取、7 大阪、8 岡山、9 宮崎
という順のようです。

前方後円墳・前方後方墳の分布-古墳密集度マップ
https://pennihonshi.blog.fc2.com/blog-entry-1800.html
 *「専門家」に申し訳ないけど
  出雲中心の前方後方墳を「狗奴国の」
  なんて言ったらおかしいよね。普通に
  ニギハヤヒ朝ヒノモトの故地にあります。


前方後円墳は
奈良に近ければ多いわけではなく、
兵庫、京都などは宮崎よりも少ない。

また、奈良のが一番大きいわけでもなく
いわゆる仁徳天皇陵(大仙陵)が最大。

「応神天皇が渡来人を呼び込んだから
土木技術が向上して大きくできたんだ」
とか、「渡来人」は言うのだけれど、
銅剣、銅鐸なども、小さいものから
エスカレートして非実用的な大きさになって
すたれるというパターンがある。

大きければよいというものではない。

天然の小丘を十二分に利用した
巨大前方後円墳

https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-199.html
「規模に差があるのみならず、形態にも違いがあり、向きもまちまちであることは、築造に関して出来るだけ残丘の原形を利用して労力の節約をはかったことを物語るものではないだろうか」
「とくに、清寧天皇陵・白鳥陵・墓山古墳・応神天皇陵・皇后仲姫命および允恭天皇陵が羽曳野丘陵からみて同一方向にほぼ一直線にならんでおり、応神天皇陵と允恭天皇陵の大阪群層の方向も同じ方向を指しているという事実がこのことを裏付ける。」

筑豊の古墳は、だいたい香春岳の方を向いてるそうですが。

宇治天皇(うじのいらつこ)は
民の負担を考えて、古墳などは作らなかったという。
https://okanoagata.blogspot.com/2017/03/13.html

そういうわけで、最初の古墳は、小さかったはずで
終末期にもまた小さくなって行き、寺へと変遷する。

清寧天皇陵は115mと小さくなる。
同時代の、岡山の造山古墳は360mあるのに。
身分の高い方が大きいというのなら
中央よりも地方の方が強力だった事になる。

こちらのブログは著者さんがお亡くなりになられているようですが
非常に惜しまれる・・・出版したいくらいの資料もあります。
https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/d8acdb6277b397612b984f538f823e26
200mを超える主な古墳の築造時期
箸墓と大古墳時期比較

で・・・前方後円墳の原型か?と言われる
弥生末の円形周溝墓が奈良の橿原市で
見つかったそうで、
外から堀を渡って古墳につながる
陸橋の部分が、前方部分の原型ではないか?
みたいに言ってるんだけど、
実は
最古の陸橋付円形周溝墓は
四国の名東遺跡。紀元前1世紀。
また
最古の陸橋付方形周溝墓は
兵庫の東武庫遺跡。なんと紀元前5世紀。
奈良からはじまったわけではないんです。

最古の前方後円墳はどこにある?
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-188.html
1期が最も多いのは、筑前(福岡県北部)で9基、
 第二位が播磨(兵庫県)で8基、
 第三位が大和で6基。

普通に「東征」があったと見て
いいんじゃないのかなぁ。
何が何でも奈良以前を消そうとしなくても。


それから・・・筑豊や日田などでは、
前方後円墳のような地形が残っているのに
古墳とは認定されてないような事も多いようで。
魏の曹操の墓から出たのとよく似た鉄鏡が出た
というダンワラ古墳なども、近くに前方後円地形
があります。本当はそちらの遺物だったのかも。

 それと、「出土地不明」の宝物は、だいたい
 福岡から出たのではないか、などとも言われてたり。
 少なくともそういう事例があるのは福永晋三先生の
 耳にも入っているそうで。ものすごい大金をつまれて
 持っていかれた事例があるそうな。


そして・・・赤村(福永説では飛鳥・明日香)には
全長460メートルの前方後円地形がある。
大仙陵に次ぐ赤村前方後円地形
*実際は「後円墳」側が香春岳の方(北)を向いています。
いや、少々崩れてるので453mだけど。
ttps://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/講21-03-卑弥呼の墓赤村説/赤村の前方後円型地形/
「後円部に当たる部分は直径約150メートル」
云々は、まぁ、卑弥呼陵の「径百余歩」に
あたるかどうか、そういう説も可能ですが。

弥生時代の土器が見つかってるとも聞くけれど
普通に大仙陵と似たような時代のかなとも思います。
弥生土器を移動させる縁とか理由はあるでしょうけど。

「神功皇后」とか「応神天皇」でも、それなりに盛り上がるかな。
 現実的には、ロマンには欠けるけれど、
 安閑天皇ではないかという説が有力なのかも。
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12066416496.html

「卑弥呼」時代のなら、本当の神武天皇陵という
「大王(おおきん)さん」と似たような大きさかも。

箸墓(はしはか)古墳が「卑弥呼の墓」になりえないこれだけの理由1
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
箸墓(はしはか)古墳が「卑弥呼の墓」になりえないこれだけの理由2
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-198.html

ただ、筑豊の村に大仙陵に次ぐ大きな
前方後円墳がある事が知れ渡るならば
知られざる考古の真実について
知らなかった大多数の人々にとっては
劇的な認知の転換が起こるかも知れない。

「卑弥呼の真実発見」級の話には違いない。

射手引神社の社伝によれば、
「神武天皇」は日田方面から英彦山を超えて
香春方面に侵攻したという。
その時に案内したヤタガラスに
飛鳥(赤村)の土地を任せたのだそうだ。

そこで、日田(ダンワラ古墳のある豊前三芳駅あたり)と
赤村(前方後円地形のある赤村・内田)の位置関係。
日田から赤村
縦長はどうかと思ったので左が日田で。
見づらかったら、申し訳ないです。ダウンロードして
回転させてみてください。

もうちょっと広域で九州北部。
豊前、筑紫、肥前。
(日出町は宇佐神宮の元宮という所。)
宇佐・日田・筑豊・大宰府
倭王武は中国の三公をまねて
三司を設置したそうですが、それが
太宰府、太傳府(筑前大分)、太保府(小郡)
だったらしく、神功皇后伝承は地名の由来を
隠すように出来てる疑いもあるそうで。

ショウケ越・神功皇后と筑紫太傳(大分八幡宮)
http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65541854.html

今回の記事で参考にしたサイトの著者さんが
無料の電子書籍を出していらっしゃいます!!

図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎
神話の世界から邪馬台国へ
 Kindle版
ttps://www.amazon.co.jp/図でわかりやすく解き明かす-日本古代史の謎-シンワノセカイカラヤマタイコクヘ-青松-光晴-ebook/dp/B078G4HZ1R

インターネット上で個人情報を送信するのが嫌なので
私はまだ読んでませんが。

で、古墳から寺院に変化した後に
太宰府観世音寺から法隆寺とか三十三間堂に
寺院が移されたらしい。

また、「山背」には
太秦広隆寺よりも古い北野廃寺もあったらしい。
ttps://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/wi-empire-kyushu-dynasty/第1888話%e3%80%802019-05-07/
中世以降に成立した聖徳太子伝記類には
九州年号(金光など)が散見され

山背大兄皇子を暗殺したのが「乙巳の変 」だったかも知れないし。
罪を「蘇我氏」になすりつけたのかも。

耐震建築の米田良三氏
「法隆寺は移築された」
大宰府から斑鳩へ
http://www.abandjc-press.com/content08/

「建築から古代を解く」
法隆寺・三十三間堂の謎
https://www.amazon.co.jp/dp/4787793160/

こういう優れた研究が徹底無視されてる
というのが大問題だよね。
反論できない異論は無視すれば
大本営発表が完璧なんだという事になる
というのが「体制保守」の思想、狂信体系。
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