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真のジャーナリズムがここにある!
裏社会の垂れ流す大本営発表に騙される事なく真実を直視せよ!社会全体の実際の仕組みを教えます。 三千年の歴史からも解き明かします。
DATE: 2021/09/19(日)   CATEGORY: 真の報道3
消された邪馬台国 捏造された琉球史
最近、私は考古学のサイトをちょくちょく読んでる
のですが、そちらでも、歴史捏造とか、
大本営発表に従う体制とか、

いろいろ「政治的」な要素が邪魔していて
必ずしも真相探求してる人が
「有力者」となってはいないようです。

けれど、インターネット上では
白村江の戦に対する
ごく自然な疑問を書いて探求するブログが
あったりして、興味がある人にはおもしろい。

ただ、知るほどに問題を感じるのは
教科書に載ってる「定説」が役立たず
というか、有害かも知れない事。

興味を持ってる人しか、真相を知らない社会
になってしまう。

「定説」は興味・関心がない人でも
テストに出るので丸暗記するが

真実・正論は、自分で調べないと
知る人ぞ知る情報ばかりとなってしまう。


新型コロナウィルスとワクチン副反応に
ついて知りたい人は
先々週の記事を参照していただければ
よいかなと。
http://cyrus2.blog.fc2.com/blog-entry-410.html

先々週に書いた情報から
特に変わってるわけではないので。

政治・社会問題系の暴露情報とか
真相追及サイトが、今は新型コロナの
話ばかりになっているけれど。


Jリーグのエンブレムっていうのかな?
三本足のカラスというのは
ご存じの方も多いですよね。

太陽の中に三本足のカラスを書いたような
壁画というのは、北朝鮮あたりにも
あったりして、渡来人は朝鮮半島系だと
強調するのが考古学の主流らしいのだけど

そもそも、当時は
北朝鮮は中国領の楽浪郡だったりする。
中国からの文化だという事は
隠されがち。

三本足のカラスは「楚辞」天問篇に出てきます。
古事記や日本書紀にはヤタガラスは出ても
三本足とは書いてありません。

当時、高句麗は、朝鮮半島より北に位置している。
三国時代(中国) - 世界の歴史まっぷ
https://sekainorekisi.com/glossary/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%EF%BC%88%E4%B8%AD%E5%9B%BD%EF%BC%89/
雛形地図で言えば
房総半島を朝鮮半島とすると
高句麗は茨城・栃木の中間あたり。
世界の雛形日本列島(東)

朱雀、玄武、青龍、白虎なんかも
中国から伝わったものです。

まぁ、高松塚の壁画の場合は
テュルク系(匈奴など)と
モンゴル系(蒙古など)の
中間くらいの顔をしてるけどね。

辰韓・弁韓・馬韓の文化だって
中国人が主導していた可能性が高く
匈奴や鮮卑や烏丸、蒙古、満州族
などは、それを受け入れた側で
文明を起こしたわけではない。

韓国の南の方の狗邪韓国とか伽耶、加羅
などは、「倭人」の大使館的な交易港とか
もあったりするし。

百済の前方後円墳(3)
そこは倭国の支配下だった

https://lunabura.exblog.jp/17973962/

そもそも倭人とは?
縄文人の事ではありません。

基本的には、「弥生人」とか
「天つ神」とか呼ばれてるのが
「倭人」と呼ばれてる集団に近いかと。

これは、「知る人ぞ知る」話なのだけど
笠沙の岬(鹿児島の野間半島)というのは
長江から出た人が漂着する所。

九州の西岸は、長崎の出島・平戸にしろ、
五島列島にしろ、
香港・マカオ方面からイエズス会が来る場合も
到達しやすい場所なんです。

韓国の済州島なんかもそうだよ。

だからグラバーとか、済州島からの在日とか、
そういう方面から来るわけだ。

戦略的に、使いやすい辺境の地。

後の時代に、薩摩隼人を蔑視する向きも
あるけれど、実は隼人を熊襲と呼ぶのは
崇神系イリ王朝の間だけ。

古代日本と海人―長江・隼人・吉備ルート
https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11918720237.html
教科書には出ていないが
最も基本的な、
真実を知るのに必要な大前提です。

今のまま創価パソナや創価ツタヤが
図書館を支配し続けるようだと
真相は全て焼却され抹殺されてしまう
危険性があるので、今の内に知っておくべきです。


隼人を蔑視するのなら、何故
鹿児島・宮崎方面から古事記や
日本書紀がはじまるのか。

考古学などの主流は
中国からの先進文化は
半島経由という事にしたがるわけですよ。

一方で、外来の文化である事は隠しながら
朝鮮経由という事にはしたがる。
おかしいでしょ。

ニニギのミコトの子が
隼人の祖という海幸彦、山幸彦でしょ。
田幸彦とか畑幸彦とか
弓彦、矛彦とかではない所に
元になった伝承の古さが出ている。

魏志倭人伝の描いてる倭人の風習も
中国の南の方の、呉、越、山越とか
「南蛮」(雲南)方面の文化と似ている
ので、古代の中国人に倭人と見られてた
わけです。倭人は本来は中国南部の人の事。

三段式神仙鏡とその相関関係についての研究
その日中文化交流史における位置づけを考える
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005681686
奈良県黒塚古墳の発掘によって、
大量の三角縁神獣鏡が出土した。
しかし、三角縁神獣鏡のルーツを考える上で、
これまで全く見過ごされてきた重要な銅鏡が存在する。
それは三段式神仙鏡である。
(・・・中略・・・)
この三段式神仙鏡は中原地域の魏鏡ではなく
また長江中・下流域の呉鏡でもなく、実は長江上流域
川西平原の「西蜀広漢」で鋳造した「蜀鏡」であると断定した。

ちなみに広漢には、三星堆遺跡がある。
知らない人はギョっとするような
高度な青銅器の遺跡で
いわゆる世界樹、セフィロトの木と
同じような「通天神樹」がある。
でかいよ。 ミニチュア版もあるけど。

三国志の時代、劉備や諸葛亮が成都に入る前、
劉焉・劉璋と張魯・馬超・龐徳なんかが
成都・漢中あたりで領土を争っていたわけだけど
張魯は五斗米道(のち天師道)の教主で
老子道徳教を「聖書・経典」とする教団で
病気直しとか。雨乞いとか、そういった事をやっていた。

黄巾党(太平道)の張角・張宝・張梁なんかもそう。
洛陽あたりの王朝からすると
「邪教」で「鬼道」なんだけど、
「邪馬台国」の「卑弥呼」は
同じように見られていた、という事になる。

鏡と剣という二種の神器は
道教(鬼道)に由来するそうだ。
縄文時代からの神器は勾玉だけで
他は外来、と言えそうだ。

吉野ケ里遺跡からは銅鐸も出てるけれど
剣と鏡が入ってきてからは
九州・四国は「銅矛文化圏」となった。

三国志(演義)のマンガとか小説とかでも
知ってれば分かりやすいはずだけど。
教科書には出なくても、教養として
知っておいてもよいかなと。

ともかく、倭人・弥生人というのは
中国南方系の文化・習俗を持つ人々。
陸稲も水田も、そっちから
朝鮮半島より先に日本列島に入っている。

魏志倭人伝・現代語訳 12
風俗・会稽との関係

https://leetorin.xsrv.jp/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%83%BB%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E3%80%80%EF%BC%91%EF%BC%92%E3%80%80%E9%A2%A8%E4%BF%97%E3%83%BB%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2/
夏后少康(かこうしょうこう)の子が、
会稽(かいけい)を託されると、
断髪し、全身に入れ墨をして
蛟龍(こうりゅう)の害を避けました。
今、倭の水辺に住む人々は、
好んで海に潜り魚・蛤(はまぐり)捕ります。
全身に入れ墨をすることはまた
大魚・水禽(すいきん)を
追い払うものでした
が、
後には次第に飾りとなりました。

基本的に海人だったんだよね。
入れ墨は鮫などを避けるための
魔除けだった。

神社建築も、南方の建物に由来している。
「アカ族の住居」で検索すると、
いろいろ出てくるよ。
https://www.joyphoto.com/japanese/travel/050326/littleworld01.html

「北方騎馬民族が水田稲作を伝えた」
という真っ赤な大嘘を宣伝したい方には
非常に不都合な話。

で・・・古事記とかの神様の名は
速秋津姫とか、ニギハヤヒとか、
ハヤがつくでしょ。
ハヤトは皇居の警備などもしている。
何故そうなったかと言えば
もともと敵対勢力を服属させたのではなく
親類だったからこそ。身辺警備なんて
征服した敵にやらせるのは危険。

戦中はよく知られていた
神武天皇の「久米歌」というのがある。

厳々(みつみつ)し 久米の子が
頭槌(くぶつつ)い 石槌(いしつつ)い持ち
撃ちてし止まむ

現代語訳
http://jinja-kikou.net/kumeuta.html
勢い盛んな久米部の者たちの
頭槌・石槌を持って、
敵を撃たずにはおくものか。

久米と言えば。
久留米とか、久米島とか、
似たような地名がある。

久米島は、沖縄が
薩摩に征服される前から
そういう地名だったと考えられる。
『続日本紀』によると714年に
「信覚・球美」などの人々が来朝したという。
球美(くみ)というのが久米島と考えられる。
沖縄ってそういう訛り・変換になるよね。
クマ クミ クム クメ クモ
あ・・・クマソとかツチグモとかも
クメとかクミと同じ系統なのかも。

邪馬台国を福岡と見る人は
狗奴国を熊本と見る事が多いけれど
クナもクマに近いので
中国人がクマに漢字をあてる際に
クナになったのではないか、と推測する人もいる。
そこは断定はできないけれど。

宮崎(南九州の東側)には、
地下式横穴墓が多い。
それでツチグモなどと呼んだのかも知れない。
九州北部の場合は、
香春などの鉱山で作業していたためか。

敵視する他部族をそう呼んだという事。

漢・魏・晋の歴史記者が
国外の他部族を下に見たのと同様に。
本当にそんなに蔑視すべき人々だったのか
は、疑った方がよいのかなと。

いや、中国の文官はものすごく冷静で
倭とか卑とかいう字をあててはいるけれど
「東夷」の中では
倭が最も平和で文化的と評価されてもいる。

高句麗などは、
「風俗は淫らで好んで略奪を働く」
などと書かれている。

南九州・西九州には
中国南部・長江から漂着しやすい。
鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』には
阿児奈波(あこなは)島に着いたという話がある。
沖縄の事だと考えられている。

ただ、このルートは、必ずしも安全ではなかった。
鑑真は何度も難破している。

一度、南九州とか西九州に中国からの人が
漂着したら、中国に遣使する場合は
対馬とか宗像沖ノ島を経由する事になる。
行きは簡単だが、帰りは、釜山とか金海を出ても
一度西の方にまわった方が潮を越えやすい。
それで、百済の西南部にも
九州と同様の装飾古墳があったり
後には前方後方墳ができたりするのでしょう。

朝鮮半島から古墳が伝わったのではなく
倭人が造ったもの。


多分、そういう事を科学的に
突き詰められると困るグループが
真実をなるべく誰も知らないように
したがってるんだと思う。

考古学の学会では
邪馬台国畿内説が主流らしいけどさ。

中国の漢・魏・晋などと交易するのに
狗邪韓国とか伽耶みたいな出先を必要と
した時代に、わざわざ奈良に都を置いて
遠方まで支配できるのか?

常識で考える日本古代史
第一部 実効支配
https://godowngamblin.net/story/story01.html

みたいな疑問もあるし。

645年 乙巳の変
663年 白村江の戦い
672年 壬申の乱
701年 大宝律令
712年 古事記
720年 日本書紀

と続いた激動の時代の頃に
瀬戸内海の奥に遷都したのでは?
という説もある。

というのも、景行天皇、
神功皇后、継体天皇の時代に
たびたび九州に遠征したみたいに
なっているけれど、
地元の神社伝承などからすると
どうも、もとから九州にいたのでは?
と思われるふしが多々あるそうで。

7.磐井の乱 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」
https://lunabura.exblog.jp/30094956/

 麁鹿火の言葉からは、
 磐井とは川や山は隔てているが、
 海は隔てていないことが分かる。
 ここから、
 天皇の居場所は磐井とは陸続きだ
 という説がでてくるのだ。

 二つ目は、磐井戦後の褒賞として
 「麁鹿火には筑紫を与え、
 天皇は長門から東を取る」と言って、
 山分けを約束している。
 ここには豊(とよ)国の存在が欠落している。
 豊の国から見て西が筑紫、
 東が長門なので、
 「東西」の起点は豊となるのだ。
 福岡に天皇と金村らがいる地図しか
 描けないのである。


傑作はこれだよ。

【動画】景行天皇紀のからくり
風土記のヤマトタケル伝承

https://www.youtube.com/watch?v=_t62e-mpE5c

解説になる資料。

九州の熊襲は鹿文(かや-伽耶族)
景行天皇(ヤマトタケル)の時代の勢力

http://musubu.sblo.jp/article/181315411.html
景行天皇は 熊襲八十梟帥くまそのやそたける、
厚鹿文・迮鹿文を討伐する為、
その娘の市乾鹿文・市鹿文を欺いて召した。

時に市乾鹿文が天皇に言うには
「熊襲が服従しないことを憂えてはなりません。
私に良い謀りごとがあるので、
一人二人の兵を私にお付け下さい」と。
そして家に帰ると、沢山の酒を準備して父に飲ませた。
すると酔って寝た。
市乾鹿文は密かに父の弓弦を断った。そして
従ってきた一人の兵が熊襲梟帥を殺した。

ヤマトタケルが女装して忍び込んだのではなく
敵の首領の娘が酒を飲ませたという話で
テロないしクーデターの実行犯は一兵士。
そんな話になっている。
こちらの話の方が先にあったようで
生々しく、出てくる名前も多い。

セカヤ、フカヤ、ヘカヤといった名は
伽耶とかウガヤフキアエズと関係ありそう。
そういう話。

で、川上タケルなどを倒した後に
倭建(やまとたける)という名を贈られた。
普通は、自分の名を他人に与えるのは
目上の身分から目下に対してする事。

それまでヤマトタケルのミコトは
小碓(おうす)のミコトないし
ヤマト男具那(おぐな)という名だった。

それで、景行天皇とヤマトタケルは
対立していたのでは?
ヤマト大乱の頃の男王位を
奪った話では?
前の王が次の王に自分の名を与えた話では?
となる。

細かい話は動画を見てくださいな。

動画にはないけれど、こんな指摘をする人もいるよ。

常識で考える日本古代史
第七部 古事記と応神天皇
7.0.2 景行天皇の本名はオオタラシヒコ=大王
https://godowngamblin.net/story/story07.html
古事記中巻の後半部分を読む際、そもそも古事記成立時点で天皇の謚号(しごう/おくりな)はなかった点に留意する必要がある。だから、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇というとピンとこないが、オオタラシヒコ、ワカタラシヒコ、タラシナカツヒコと本名で並べれば、この3天皇は非常に近い関係にあるのではないかと推測されるのである。(ここでは深入りしないが、隋に使節を送ったアマ・タラシヒコとも近いのではないかと考えられる)
(・・・中略・・・)
これは妙な話である。オオタラシヒコ=大王と呼ばれる王がいるのに、その説話の優先度は低く、息子である現地司令官の説話の方が優先度が高い。そしてその息子は父王の後継者ではなく、行軍の途中で故郷を思いながら亡くなる。80人の息子というからには数十年の治世で少なくとも二、三十人の妻妾がいただろうに、それにまつわる説話がない。
ここで推測されることは、確かにオオタラシヒコ=大王と呼ばれ日本列島を勢力下に治めた支配者がいて、その大王は多くの息子を地方に派遣して勢力を拡大したかもしれないが、その大王は近畿・大和朝廷とあまり近い存在ではない。後にまとめられた日本書紀には大王自身が九州全土を征服した記事があるが、まさに「とってつけた」ような印象である。
つまり、大王と呼ばれる存在は知られていたけれども、その業績や生い立ち、エピソードなどはあまり知られていなかった。ないし、記紀の作者達(近畿政権) には身近なものではなかった。ここから導かれる仮説は、オオタラシヒコ=景行天皇は九州の大王であって、近畿を直接支配した王ではなかったのではないかということである。

ヤマトタケルは単身で乗り込んで
地方の豪族を討った事になっているけれど
実際にそんな事が成り立つのか?

それと、関東まで行ってる事になってますね。

それが、風土記だと、こんな話になる。

ヤマトタケル 弟橘媛考 その4
倭武天皇と橘皇后

https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12211643730.html
奈良時代に諸国に命じられ、編纂された「風土記」は、
今では「常陸国風土記」「播磨国風土記」「出雲国風土記」
「豊後国風土記」「肥前国風土記」の五つと、別の書物に
引用された「風土記逸文」と呼ばれるものしか残っていません。

その中の、常陸国風土記に
倭武天皇と大橘比売命ないし橘皇后が登場する。
これはヤマトタケルと弟橘ヒメの事では?
という話だけれど、
倭武というのは、ワカタケル大王ではないか?
中国の史書で言う倭王武ではないか?
本当はヤマトタケルとは別の人物ではないか?
関東の話を無理に九州とくっつけたのでは?
という推測も成り立つ。
埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣に
獲加多支鹵(ワカタケル)と刻まれている。

九州の装飾古墳(江田船山古墳)からも
獲□□□鹵大王と書かれた鉄刀が出てるが
□□□の部分が欠けていて、わからなかったが
稲荷山から鉄剣が見つかった事で
獲加多支鹵だったのだろうと、考えられるようになった。


 獲・多・支と言えば・・・
 伊都国の長官は爾
 不弥国の長官は模。
 邪馬台国の官には弥馬獲支(ミマワキ)という当て字が見られる。

 ついでに書いておくと、
 投馬国の長官は弥弥(ミミ)だが、
 宮崎の都萬あたりと考えるのが順当だろう。
 「オシホミミ」などの出身地もその辺りと考えられるので。
 一説では、ミミはタミル語(ドラヴィダ語)で神、主といった意味だそうだ。
 https://anisakuayataka.blog.fc2.com/blog-entry-551.html

 それに、副官はヒナモリとなってる所が多いけど
 小林盆地あたりの古い地名がヒナモリ。
 夷守岳(生駒富士)という山に今も旧地名が残っている。

倭王武は477年の中国(南宋)に遣使して
「東方では毛人の五十五カ国を征服し、
西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、
海を渡っては北の九十五カ国を平定した。」
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-29.html
と上奏している。
この倭王武なら、関東でも知られていても不思議はない。
これは、単騎で乗り込んで暗殺みたいな話とは違う。

ヤマトタケル伝承は、もっと古い話のようで
九州から関東まで行くのは難しかった頃と
福永晋三さんは推測していらっしゃる。

日本書紀では、ヤマトタケルのミコトを
日本武尊と書くけれど、もともとそうだったのか?

中国に対して、倭という国名を使わず
日本と称するようになったのは、
倭王武とかヤマトタケルのミコトの時代ではなく
早くても乙巳の変(俗にいう大化の改新)以降
と考えられる。

『旧唐書』倭国伝・日本伝
https://himeluna.exblog.jp/18047954/
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、
「日本」という名前をつけている。あるいは
「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、
改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは
「日本は古くは小国だったが、
倭国の地を併合した。」とも。


谷川健一さんの「白鳥伝説」を読んだ事のある人なら
この話の真相が推測できるはずだ。

谷川健一「白鳥伝説
https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11917457710.html

神武天皇より先に
河内に天磐船で降臨したのは
ニギハヤヒ大神様。
のちの「物部氏」の祖先だ。

日下(ひのもと)の草香(くさか)辺りに拠点があった。
今では日下と書いてクサカと読むのは、そのため。

邪馬台国九州説の中には
北部九州の遠賀川から鷹羽の神が東遷した
みたいな説のグループもいらっしゃるけれど
その部分は谷川健一さんの説に近い。

その前に、安本美典さんが
甘木・朝倉からの東遷説を唱えていらっしゃるそうだけれど
安本さんは谷川さんの説をある程度
ご存じのようだけれど、福永晋三さんは
谷川健一さんの説をご存じないかも知れない。

そして、白鳥伝説を読んだ上で
古墳についていろいろ知ると
前方後「方」墳は
ニギハヤヒ朝ヒノモトの故地にある

と分かるようになる。この説はまだ
私しか唱えていない。 多分。

以前、私が古墳巡りをしていた頃は
白石太一郎氏は
河内には前方後方墳はない
とか書いてらっしゃったと思う。
けれど、庭鳥塚が2005年に見つかっている。
ニギハヤヒ朝が東遷した後も
残っていた人もいる、という話にはなる。

ニギハヤヒ朝ヒノモトを知るには
「白鳥伝説」は必読書だ。

私の説をはしょって書いておく。

南九州に倭国(ニニギ朝ヤマト)があり、
琉球からのゴホウラ貝も取り入れていたが
北部九州勢力(イリ王朝)に敗れ、
ゴホウラ貝を使わなくなった。

邪馬台国総合説 赤椀の世直し
沖縄・奄美は原初ヤマトの生みの母胎であった
https://honto.jp/netstore/pd-book_02037659.html

辺野古には重要な遺跡がある!
破壊こそが特亜の陰謀!!

ほか いろいろ
http://cyrus2.blog.fc2.com/blog-entry-249.html

北部九州の遠賀川から出雲、河内、尾張と
移転していったニギハヤヒ朝ヒノモト。
ニニギ朝ヤマトがイリ王朝に敗れた頃は
出雲を中心としていた。
いわゆる銅鐸文化圏と重なりそうだ。
出雲の覇者はスサノヲの大神様だった。

土笛の分布は出雲が中心で
一番西の端は宗像大島。
出雲がヤマトから割譲されたのではないか、
それが女王「天照大御神」とのウケイではないか?

消された覇王
伝承が語るスサノオとニギハヤヒ
(伝承が語る古代史 1)

https://honto.jp/netstore/pd-book_02516608.html

スサノヲの大神様の御子
ニギハヤヒ大神様の代に
河内に入り、ヒノモトを建国。

そこへイリ王朝とニギハヤヒ朝の混血
(半神半人)である神武天皇が侵攻。

「神武東征」は3代・3名の東征話の
ごちゃまぜで、

東征のはじめは卑弥呼様の弟君。
次はイリ王朝のミマキイリヒコ。
大和に入ったのは「八幡大菩薩」。

ニギハヤヒ大神様は人皇初代に譲位し
「神武天皇に位を授ける神」として
飛騨一宮・水梨神社の奥宮(位山)に
御祀りされている。即位の際には
位山のイチイの木から作った笏(しゃく)
が必要とされる。

青森まで北上して行ったニギハヤヒ朝
ヒノモトの故地には、しばしばイチイの木が
見られる。早池峰山、八戸など。

菊池展明氏の
エミシの国の女神」も読んだ方がよいかなと。
https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11916673668.html

遠野の菊池姓は
元は九州の菊池からはじまった
という説もある。

邪馬台国の時代、
狗奴国の男王は卑彌弓呼、
長官は狗古智卑狗(クコチヒク)だったという。
そのクコチヒクが菊池(旧くはククチ)一族の
祖ではないかという説もある。

邪馬台国・奇跡の解法
●ククチと呼ばれた土地
 熊本県の菊池は古くは久々知(ククチ)といった。

https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/3788464378c27552f7a84ebe24102bbf

後に菊池一族が藤原氏と称するのは
中央の有力者と同族としておかないと
成り立たない時代があったからで
実際は違うのではないか、という説もある。

女王(卑弥呼)と男王(卑弥弓呼)の
名ないし官職名が似ているので
もともと同じ文化の同族ではないか、
という説もある。

かつて菊池郡だった中には
「菊池十八外城」の内の七城が
集中する七城町といった町があった。
そうした町も、今は大半が菊池市となった。
そうした地域の中に、久米八幡宮がある。

082 菊池市泗水町の久米八幡宮に謎の石積みがある      
久留米地名研究会 2014-0517
https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11905102244.html

「ハヤト」とか「クマソ」は
ニニギ朝ヤマトの皇族や同胞であって
それを朝敵とした者こそが
クーデターで政権を乗っ取った賊ではないの?
というのが、考古学や神社伝承などから
出てくる疑問なんだよね。

「物部氏」はニギハヤヒ朝ヒノモトの皇族だし。
四隅突出型墳墓や方形周溝墓から
方墳や前方後方墳と移行した人々。

ヤマト(倭、邪馬台)は円墳
という、使い分けがあったのではないかと。

前方後円墳と前方後方墳が出現するのは
方墳勢力が円墳勢力に「国譲り」した後ではないかと、

隋書倭国伝を読む その6
阿蘇山が象徴的に描かれている理由とは?

https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-35.html?sp
だったら、アメのタリシヒコ王ないし
アマのタラシヒコ王も九州にいたはずだよね。
小野妹子を派遣したのは推古天皇ではないよね。

推古天皇の諱・和風諡号は
額田部(ぬかたべ)の皇女(ひめみこ)、
豊御食(とよみけ)炊屋(かしきや)姫
といった風で、タラシ系ではないし。

「天香山」から銅が採れるか
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou72/kai07201.html

香春岳 「三ノ岳」こそ天香具山か
【連載 新説・日本書紀①】
https://horubai.jp/content/nnp_news/129
記紀などの神代に描かれた
「天香山(あまのかぐやま)」からは
金と銅が採れたと記してある。
が、奈良県の天の香具山からは何も出ない。


考古学から見た邪馬台国大和説
畿内ではありえぬ邪馬台国

https://twitter.com/kodaizine/status/1332761664161259521
大陸系遺物の少なさ
・北九州との交流を示す遺物も同様。
・他地域との交流を示す土器は東海方面が主流。
・前方後円墳の原型とのいわれる弥生墳丘墓が殆ど見当たらない。
狗奴国に比定されることが多い東海方面とは交流が継続していて、争っている様子は窺えない。

さらに、こういう指摘も。

邪馬台国は銅矛文化圏
四道将軍が派遣されたのは銅鐸文化圏

https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2012-12-04-1

・ もし邪馬台国が関西(銅鐸文化圏)なら
 支配領域のはずの末盧国や伊都国にも
 銅鐸が残されているはず。

・邪馬台国が元から関西(銅鐸文化圏)にあったのなら
 銅鐸を埋めるのでなく、残すなり流用するなり
 しているはず。銅鐸に関する伝承や知識もあるはず。
 しかし、実際には無かった。

邪馬台国・奇跡の解法
付記2・卑弥呼の墓と金印の実相

https://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/d8acdb6277b397612b984f538f823e26
●拡大へのエスカレートのステップ
 これも箸墓の築造年代にかかわる重要な要素である。ものごとのには流行と廃絶に一定の法則がある
①銅鐸は、最小で10・0cm前後の小銅鐸から、最大で130cmを超えるまでにエスカレートを見せて廃れる。
②代わって初期道教の鏡信仰が入ってくるのだが、鏡は10・0cm足らずの掌中鏡から次第に大型化して、最大46・5cmにエスカレートしている。(実用サイズの20・0cm以内に戻る)。
③素環頭大刀・環頭大刀は、初期は全長80・0cmぐらいから、ほとんど実用をなさな180cm近いものまでエスカレートして廃れる。(太刀も実用サイズに戻る)。
古墳も、当初は数メートルから2~30mなのだが、権威の誇示や象徴といった機能に伴って、「流行・エスカレート・廃絶」というステップを踏む
●箸墓古墳の「突然性」
ここで、箸墓古墳を3世紀半ばの築造とした場合、時代的に規模的に、いかに突然変異的であるかをみてみよう。
(以下省略。リンク先を読んでみると分かるかと。)

逆に・・・
糸島(福岡)の一貴山銚子塚古墳は
2、3世紀の、最初期の前方後円墳と考えられる。
https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12562721989.html
・周濠がない
・埴輪がない
・素環頭大刀が出土
 (弥生時代の副葬品。のち装飾刀へと発展)
・後漢鏡が埋葬されていた。
 鍍金(ときん、金メッキ)された、貴重な鏡だった。

それとね。「魏が卑弥呼に与えた鏡か?」
と言われる三角縁神獣鏡なんだけど
蜀とか呉に由来し、国産もしている。
魏、前漢・後漢の鏡ではない。
(蜀は五斗米道、呉は太平道の影響。)

兵庫の安倉高塚古墳と
山梨の鳥居原狐塚古墳から
呉の年号の入った神獣鏡が見つかっている。
赤烏は孫権の治世、238年から251年。

魏の曹操の墓から出たのとそっくりの
魏鏡が出土したのは
日田のダンワラ古墳。
既に破壊されたらしく日高町としか分からないが
近くには求来里(ククリ)川、三隈(ミクマ)川がある。
『豊西記』の「日と鷹神話」の地だ。

前漢・後漢の鏡なら
吉野ケ里遺跡とか、
丹波(丹後)の籠神社の海部家とか。

ただ・・・「邪馬台国の鏡か!?」
みたいな見出しで新聞に宣伝しないと
遺跡が保存できない、壊されてしまう、
みたいな事もあるみたいで・・・
仕方のない一面もあるようです。

教科書に出ない、知らない先史時代の国の
話だと、なかなか興味を持ってくれない・・・
あるいは、学会の方針に沿わないと
なかなか受け入れられなかったりもするらしい。

歴史捏造したい連中が主流で
真実は不都合らしい。

大本営を妄信してない人からすると
逆に、まともな学者さんが権威者だったりすると
意外に思ったりするくらいだよ。

それで、今回は考古学の話ではあるけれど
「学問」ではなく「政治」ジャンルにしてみた。

常識で考える日本古代史
第五部 白村江と倭国
5.5.1 天智天皇が戦争責任を追及されなかったのはなぜか

https://godowngamblin.net/story/story05_5.html
敗戦国である百済・高句麗は国自体が消滅してしまった。問題はなぜ、日本だけが国として存続し、かつ、戦争時点で国家元首であり軍最高司令官でもあるはずの天智天皇が敗戦後も国家元首であり続けることができたのかということである。日本書紀には、この点について納得できる説明がなされていない。
天智天皇については、もう一つの疑問がある。この章の初め(5.1 虚像の天智天皇)に書いたように、日本書紀に書かれている内容をよく読んでみると、天智天皇の業績に特筆すべきものはない。大化の改新はあってもなくても大勢に影響はなく、国力を傾けた百済支援は白村江の大敗によって、投下した兵力・武器・兵糧、つまり人材と資本をすべて失ったのである。
にもかかわらず、平安時代以降の天皇はすべて天智天皇の子孫であり、藤原氏も天智天皇の血筋である、という記事もあるくらい、後の世において天智天皇は特別視されているのである。
(・・・中略・・・)
日本書紀の記事がないとすれば、これらの事実を最も合理的に説明できる事実は以下のようになるはずである。
1.唐・新羅と敵対した倭国の国家元首は、戦争責任をとらされている。つまり、天智天皇とは別人である。
2.天智天皇の最大の業績は、「倭国」から「日本」へ、日本列島を代表する政権を移したことにある。
3.唐・新羅が天智天皇の「日本」を優遇したのは、白村江の戦いに参加しなかったからである。つまり天智天皇は、白村江以前から唐・新羅と内通していた。

もちろん、この「日本」は
かつて河内にあって陸奥に遷都した
ニギハヤヒ朝ヒノモトではなく
擬制日本(実質は百済)である。

天智天皇は新羅と内通していた
とは言うけれど、既に滅びかけの
百済の王族は日本に亡命して来ていた。
白村江で死んだのは倭人。

百済や高句麗からはたくさんの特亜が
亡命して来た。そして九州や関東に入植した。
高句麗・百済系が日本列島を背乗りした。
それで秩父に高麗神社がある。

それに統一新羅の王も百済人だった。
新羅の最初の王は倭人だったというけれど
そこも百済人が背乗りしたわけだ。

百済の王族は高句麗系。
つまり、三国志の時代は
楽浪郡よりも北にいた、
朝鮮半島にいなかった。
匈奴、蒙古などの類。
ウラル=アルタイ系はバイカル湖から拡散

ものすごく大雑把に言えば

国つ神≒O型≒縄文人
天つ神≒A型≒倭人
害人≒B型≒高句麗人

という違いがある。
全然違う。

まぁ、混血してるけど。
元が違うから、
今でも全然違う。
肉体が混血しても魂が違う。

細目は寒冷適応の結果で
北方騎馬民族の特徴。
そして残念ながら遺伝しやすい。
環境適応で身に着けた形質なので。

細目ごり押しは韓流ごり押し。
いや厳密には扶余(フヨ、プヨ)流とか
匈奴(フン)流とか呼ぶべきかもね。

ウヤムヤにしてごまかそうとするのが歴史捏造主義者。

フン族(偽ユダヤ)は高句麗人の同胞。
「バビロニアン・ブラザーフッド」(特亜同胞)だ。

反日政府は、事実を隠し、教えない。
そういうわけだ。

批判者は悪? 虚構が好きな方々
http://cyrus2.blog.fc2.com/blog-entry-409.html

戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。
ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまで
そのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。
ほか いろいろ
http://cyrus2.blog.fc2.com/blog-entry-411.html

そのおかげで、敗戦後、
日本人に優しい平和憲法が出来て
反日蛮賊ファシストの軍事独裁は
制限されるようになった。

連中は、日本を同胞に背乗りさせ
体制保守するつもりだったろう。
けれど、政府が反日親韓である事を
知らない在日朝鮮人の中には
反日政府が知られたくない
本当の歴史を暴く人々も出てきた。

まず、どうして百済(ペクチェ)を
クダラと読むのか。

朝鮮半島からの人が
弥生時代や古墳時代と
どう関わってきたか。

どう考えても大陸・半島からは九州が近い。
その次は日本海の出雲。
今でこそ田舎だが当時は
日本海が文化・物資の主要ルート。

瀬戸内海の奥まで都を遷すのは
大型船で攻め込まれる危険が
現実的になって来てから。

彼らがそこに突っ込むのを
抑え込もうとすれば、
自分たちの謀略がばれてしまう。

味方と思っていても
騙しておかないと
真実が日本人にもバレてしまう。

そういうわけだ。

沖縄では、第二尚氏が
クーデターを起こして
第一尚氏の王朝を背乗りした際、
中国には、同じ王朝・親族だと
報告していたようだ。

「天智天皇」が背乗りした倭・日本を
天武天皇が奪還した際も、
白村江で敗れた側である事は隠し
天智の親類という事にして報告した。
けれど、古事記や日本書紀が完成
する頃には、百済人の藤原不比等
(中臣鎌足の子孫ではなく天智の子)
に実権が移っていた。そして持統女帝と
一緒になって古神道を改竄し
朝鮮の護国仏教と似たようなエセ神道にした。
天皇家背乗り
という事が考えられる。

ここで沖縄の歴史も、
まず考古学から見てみよう。

1000年~1200年頃 原グスク時代。農耕社会に適した広底土器

1200年~ 按司時代・グスク時代
(按司もグスクに原型はもっと古く。二重三重の石垣を持つ城塞のみを対象とする。)
集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。
集落遺跡は、石灰岩台地ないしその周辺で集中的に分布。

1259年?~1349年 中山英祖王統

1299年 マルコ・ポーロ「東方見聞録」
*この頃、台湾が元寇を撃退しているが
 中国では台湾をも琉球と呼んでいた。

1322年~1429年 三山時代
 1322年?~1416年 北山 怕尼芝 王統
 1337年?~1429年 南山 大里  王統
 1350年 ~1405年 中山 察度  王統

1406年~1469年 中山 第一尚氏 王統

1438年 伊是名島で夫地頭職と神職を世襲していた尚稷の
 子・金丸(24才)が伊是名島を出た。 金丸の田だけ枯れないので嫌疑をかけられたとの事。
1441年 よそ者という事で国頭村で受け入れられなかった金丸(27才)が那覇へ向かう。
1452年 金丸は38歳の時に臣下の最高位・黄冠に昇ったという。
 *冠制は1524年からなので後世の当てはめであろう。
1454年 仕官14年目にして、西原間切の内間領主に任命された。
1459年 御物城御鎖側官に就任。貿易長官にして王への取次職でもあり、王への上申は金丸を経由する必要があった。
1460年 尚泰久王が薨去
1466年 喜界島に尚徳王自ら遠征。奄美諸島を支配下に。
1469年 尚徳王が薨去し、法司(三司官)はその世子を即位させようと、重臣たちを招集して会議を開いたが、
 国王としての資質を問われ、その席で金丸を次期王に推すことが決定され、金丸55才が隠遁先から首里に迎えられ
 即位し、尚円と名乗ったという。 が、実際は、久高島の巫女の所へ長期不在にしてる間のクーデターらしい。
 王妃と子ども3人が殺された。久高島の巫女も殺された。巫女の一族も入れ替えられたらしい。
 孫氏平田家、明氏亀谷家、武氏嘉陽家は第一尚氏の末裔というが、真相不明。

1543年 種子島に鉄砲伝来
1549年 ザビエルらの一行が鹿児島に上陸、布教開始
1600年 関ヶ原の戦い
1609年 島津の琉球侵攻 *グスク時代終了
1866年 薩長同盟
1945年 アメリカ領の琉球に
1972年 日本領の沖縄県に

ざっと、こんな感じなのだけど、
「公式の歴史文献」だと、全然違う話になる。

1165年 「保元物語」によると、源為朝が鬼ヶ島に渡った
1166年 「中山世鑑」(1650年成立)の言う大里按司の妹と源為朝の子・舜天誕生
1180年 「中山世鑑」によれば、舜天が15歳で人民から推挙され、浦添按司に
1187年 「中山世鑑」によれば、舜天が22歳で中山王として即位。
 それまで首里城は「天孫氏」が治めていたが、部下の利勇に殺された。そこへ舜天が乗り込んだという。
1237年 「中山世鑑」によれば、舜天、72才で死去。

1525年 月舟寿桂「幻雲文集」鶴翁字名并序に琉球僧(鶴翁智仙)から聴いたという源為朝伝説
1531年~1623年 第2尚氏が沖縄歌謡集「おもろさうし」編纂
1604年 ロドリゲス「日本語文典」。「日本教会史」は未完のまま散逸したが、現代に復刻
1605年 袋中良定「琉球神道記」に源為朝伝説
1638年 天草・島原の乱 (前年12月から)
1853年 ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城に入った
 日本も開港し長崎出島・平戸だけではなくなったので、琉球が中継貿易の中心では無くなった
1996年~2004年 浦添ようどれの発掘調査
 安里進は、この発掘調査により英祖王統は実在したと考えている。第一の理由に
『琉球国由来記』に記された浦添ようどれの建造年代と、発掘された瓦に刻まれた年代に一致するという点、
 第二に建造の際に多数の人員と技巧職人を指揮し、
 地方を束ねた按司と比較にならない大規模の墓を造営したという点を挙げている。

はぁ?だよ。

考古学や中国文献から分かってる
中山支配者は
1259年?~1349年 英祖王統
1350年 ~1405年 察度王統
1406年~1469年 第一尚氏王統
で、第一尚氏が
北山王統・南山王統を破って沖縄を統一し
琉球を正式王朝名として中国(明)に報告した。

第一尚氏をクーデターで抹殺し背乗りした
第二尚氏が、どうして「源為朝の子・舜天」
などと言い出すわけ?それが中山王朝の祖?
そんなもん、自称・源氏の島津や徳川の都合でしょ。
普通に考えよう。

馬鹿げてる。

実際は金丸のクーデターで乗っ取られたのは第一尚氏。
天孫氏とか利勇とかは出てこない。
金丸が利勇みたいな事をしたくせに、
それを討った舜天みたいな話になってるでしょ。

これが歴史捏造の手口なんだよ。

で・・・歌謡集「おもろさうし」にアマミキヨ(天孫氏)が出てくる。
第二尚氏がそういう事を言い出す前、
万葉集、日本書紀、新選氏姓録の沖縄版みたいなのを
捏造する前に、アマミキヨ伝承があったのかどうか。
きちんと調べないと。
疑ってかかった方がよさそうだ。
これはひどい。

1525年に、源為朝伝説が沖縄に実際あったかは不明。
月舟寿桂が「幻雲文集」に書いてるだけ。
何のために?
その時点でもう、薩摩が狙ってたのかもね。
「ヴェニスの商人」やイエズス会とかも。

証拠があるか? そういう話を聞いたと
書けば証拠になるなら、書けばよいだけ。
書いても証拠にならないというなら
月舟寿桂の「幻雲文集」も、何の証拠にもならない。
それだけの事。

ロドリゲスの「日本教会史」にも、源為朝伝説が出てくるそうな。

「発掘された瓦にきざまれた年代」も
書いてあるだけだから、疑ってかからないと。
炭素測定とかしたの?
いかがわしいでしょ。

それと、舜天の父親は源為朝ではなくて
部下の阿多忠景で、実は平氏だという話が
現在では優勢になって来てるそうだけど、
その話の出どころは
曲亭馬琴の『椿説弓張月』だから。

1807年から出版をはじめて、
4年くらいかけて完結した「史伝物読本」でしかない。

島津にしろ、徳川にしろ、
実際は源氏ではなさそうだからね・・・
平氏にしておけば、桓武天皇の子孫とされてるから
百済人という事になる。
その方が反日政府に都合がよいわけだ。

で、グスク時代の主役は本土から南下した勢力で
鉄器によって農業の効率が飛躍的に上がった
などと言うのだけれど、
来間泰雄、豊見山和行、吉成直樹らにより以下のような異論が提出されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%99%82%E4%BB%A3
土壌の分析(高度な灌漑設備が整わないと耕地化が困難
・農具の普及状況(比較的生産力が高いはずの「真志和・南風原・大里、東風平・豊見城の間切」においても、
 18世紀半ばですら、もっとも単純な農具であるヘラや草刈り鎌」が普及していない。
・沖縄における農耕は、外来の交易者が在地の漁撈採取民に強制した意欲の乏しいものとして始まり、
 近代に至るまで器具や整地、灌漑など低レベルで推移した。
・グスク時代の社会基盤は交易と、漁撈採取であるとする

どうも、「定説」は、はじめに結論ありきで
現実を見ていないようで。

沖縄の先史時代と比較して、グスク時代における人々の骨格は、
日本本土の中・近世人と大きな差異は見受けられないという。
旧石器時代の港川人は
男で約153~155cm、
女は144cmと小柄。

というけれど、
源平合戦の頃に
源義経公が乗っていた馬は
ポニーくらいの大きさと考えられている。
戦中の日本人だって165cmくらい。
栄養などの状況が変われば大きくなる。
同じ人種であっても、なのだ。

それに、今でも沖縄の人って
少々小さくないかい?

2014年度の17才の身長
沖縄 男 168,8cm
沖縄 女 155.8cm
男女とも47都道府県別47位
https://www.suku-noppo.jp/data/average_height_region.html
それも、米兵との混血を合わせても、だよね。

沖縄みたいな離れ小島は
防衛には不向きだ。
大軍と、その食糧は
他の地域から供給せざるをえない。

それで、暴力・軍事力で
交易や漁業での収穫を奪われたりしたら
離れ小島に住んでいた人が悪い
という事になるのだろうか?
平和に暮らしていた人を虐待する
加害者が悪いだけじゃないかな。
本当は。

被害者を悪者扱いし
嘲笑したり、敵視したり、
ただのテロリストのくせに
加害者が偉いなどと主張する連中
こそが悪魔主義者でしょ。

ひふみ神示 第十五巻「一八(イハ)の巻」
第十一帖 (三七六)
「此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、
世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。
早う元にかへして改心いたされよ、
神国(かみくに)の王はの王ざぞ、
外国(とつくに)の王は人の王ざぞ。
人の王では長う続かんのぢゃ。


ひふみ神示 第ニ巻「下つ巻」
第十三帖 (五五)
逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、
そんなこと長う続かんぞ。
あたまで手で歩くのは苦しかろうがな、
上にゐては足も苦しからうがな、
下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、
足はやはり下の方が気楽ぞ


こういう神示が指しているのは
大本営が日本を乗っ取った
蛮賊である事実なのだ。
考古学や民俗学でそれを解き明かせる。

敗戦で日本国憲法ができたからこそ。
特亜ファシズム=テロリズム蛮賊を封じているからだ。

白村江や太平洋戦争のような事を
二度と繰り返さないように決意しないと。
神示は、そういう話なのだ。
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