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真のジャーナリズムがここにある!
裏社会の垂れ流す大本営発表に騙される事なく真実を直視せよ!社会全体の実際の仕組みを教えます。 三千年の歴史からも解き明かします。
DATE: 2020/08/08(土)   CATEGORY: 戦国無双4 Empires
明智光秀が織田信長と出会うまでの嘘
 後世の創作では斎藤道三に仕えていた事にされてるが
 本当は幕臣で細川藤孝の配下だった事が
 多聞院日記やルイス・フロイスの日本史で分かる。

 土岐氏が斎藤道三に実権を奪われて以降、
 美濃斎藤に臣従していたわけではない。

 先祖の時点で土岐氏に背いて
 六角氏を頼り近江に逃れていて
 光秀は近江で産まれたという説もある。

 また本当は明智ではなかった
 とか、明智光安は遠山景行とか、筒井順慶は弟とする
 諸説・俗説?も多いようだ。
 喜多村系図、宮城系図、山岸系図など。

 そもそも、叔父の光安や父の光綱の実在は証明されていない。
 土岐明智氏は1502年には消えているとの指摘も。
 恵那郡明智は遠山姓明智氏の領土。
 可児郡明智八郷は石清水八幡宮領。
 「時は今 雨が下しる 五月哉」を土岐明智と結びつけて
 謀反の意志と解釈したのは秀吉ではなかったかと。

 また光秀と懇意だった吉田兼見の日記の
 光秀の妹・妻木の記述から逆算すると
 1540年以降に生まれた事になるそうだが
 何しろ日記は本能寺の変以降、改竄版が
 正式版という事になっているせいで真相不明。

 大河ドラマ「麒麟がくる」もあるので詳しく見ましょうか。

 後世の「当代記」によると1516年生まれ、
 同じく「明智軍記」によると1528年生まれ。
 だが1516年だとフロイスに老人と
 呼ばれている村井貞勝より年上となり不自然。

1516年産まれだと、ガラシャ誕生時は47才、十五郎誕生時は53才。
んー、かなり無理があるかなと。

1528年生まれだと、ガラシャ誕生時は35才、十五郎誕生時は41才となる。
少々、不自然かと。

 仮に1540年生まれとすると
*0才からはじまる現代式の計算と
 誕生日を考慮せず正月で加齢する数え年式の合成ですが
1541年1才 土岐頼満が急死。斎藤道三に毒殺された?
1548年8才 濃姫13才と織田信長14才の結婚
1552年12才 斎藤道三が揖斐北方城の土岐頼芸を再び尾張へ追放し美濃平定
1556年16才 斎藤道三が子の義龍に敗れ死亡
1560年20才 桶狭間の戦い。 今川配下の家康は17才
1563年23才 玉(のちのガラシャ)誕生
1565年25才 足利義輝29才が殺害された
1566年26才 細川家臣の医者の米田文書の写本成立。
 高嶋田中城に籠城した光秀の話が載っている。1565年頃の事かと。
1568年28才 足利義昭の上洛に関わる
1569年29才 三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲。
 その際の防衛側で信長公記に初登場。
 嫡男の十五郎(光慶?)が生まれたのもこの年。
1570年30才 浅井長政25才の裏切りで金ヶ崎の撤退。
 『武家雲箋』所収一色藤長書状によると
 秀吉と共に光秀もしんがりを努めたそうだ。
 この年、細川藤孝の従弟の吉田兼見の日記に
 光秀が初登場。既に親しく、石風呂に入れた話
1573年33才 足利義昭36才が挙兵。光秀は幕臣をやめ織田配下に。
 この年、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の光秀書状あり
1576年36才 石山本願寺との天王寺の戦い。過労で倒れ療養。
 正室の煕子が坂本城で病死。この年、秀吉は信長の四男
 於次丸7才を養子に欲しいと願い出、79年頃には実現。
1578年38才 信長の命で玉(ガラシャ)15才が細川忠興15才と結婚
1579年39才 かつての主君の細川藤孝らと共に丹波・丹後を平定。
 この頃、秀吉は上月城攻防の末、宇喜多を従えたが
 摂津の荒木村重の寝返りなどで毛利攻めは一時中断
1580年40才 丹波一国の領主に。
 寄騎として細川藤孝46才、筒井順慶31才らが配属される。
 松井康之30才などは臣下だった光秀の配下になる事を嫌がっていたらしく
 秀吉はそういった事情を分かっていて細川・松井に接近、調略したらしい。
 また勝手に三好と同盟し、光秀の長宗我部との同盟を破綻させた・・・
 という説もある。それに対し、秀吉の甥(のちの秀次)は本能寺の変の
 前には三好の養子になってなかったとする反論もある。

 この頃、秀吉は2年にわたる兵糧攻めの末、別所長治を下したが
 竹中半兵衛を失うなど苦戦している。石山本願寺攻めのせいで
 一向宗徒の多い播磨国人の反乱に苦しみ、毛利と挟まれ窮地に
 陥り、調略の名手である自分が天下人になった方がうまくやれるのでは?
 と考えたのではないかと推測する人もいる。

1582年42才 織田軍が四国へ渡海する予定だった6月2日の早朝、
 本能寺の変を決行も、山崎の戦いで秀吉45才に敗れ死亡。
 信長の四男13才が養子で毛利攻めに同行していた事も秀吉に有利に。
 全て計算づくかと。

肖像画も、40才前後の方が54才とか66才とかより近いのではないかと。
普通は晩年のが残ってるもので。出世途上の若い頃よりも。

なお『明智軍記』では3男4女、『鈴木叢書』所収の
「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとするが
はっきりしてるのは玉=ガラシャと十五郎だけで、
十五郎の諱は明らかではないらしい。

今後もドラマ撮影はあるのだろうから
役者さんはフィクションと割り切ってやった方がいいかも知れないけど。

もともと細川の家臣であったのを隠し、朝倉に10年仕えてたなどと
すると話が不自然という事。比叡山焼き討ちなども
実際は細川のやった事を織田に転嫁してる可能性すらある。

細川政権(戦国時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E6%A8%A9_(%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3)
「細川政元が管領職を独占して幕府の実権を握り、比叡山延暦寺を焼き討ちするなど各地で反抗勢力を攻めたり細川氏の被官としたりして勢力拡大を図り、京兆専制を打ち立て細川氏の全盛期を築くこととなった。 」

なお、調査の結果、炎上したのは根本中堂だけで、山全体であるかのような記述は間違いである事も分かっている。

土岐康行の乱 1390年 南北朝時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E5%BA%B7%E8%A1%8C%E3%81%AE%E4%B9%B1

土岐西池田家頼忠・頼益父子は
室町幕府に味方して康行と戦った

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E7%9B%8A
応永6年(1399年)の応永の乱では頼益は幕府軍に加わって和泉堺へ出陣していたが、従兄の土岐詮直(康行の従弟で乱後没落していた)が大内義弘に呼応して挙兵し、美濃へ乱入した。頼益はただちに兵を返して詮直を打ち破っている。
頼益は義満と4代将軍足利義持から信任され、応永8年(1401年)に評定衆に列し、応永10年(1403年)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、幕府七頭の一家となり、同年に侍所頭人、宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた。
一方、本国美濃では古くから土着している土岐氏庶流の多くは西池田家が主流となったことに反抗的で、頼益は統治に苦労し、外様の国人の富島氏を守護代に重用するようになった。頼益の時に目代の斎藤氏が被官となり守護代となっている。

奉公衆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%85%AC%E8%A1%86
義昭は織田信長の支援で15代将軍になったが、
義栄に味方した奉公衆の多くは追放されたために
安見宗房のように新たに奉公衆に取り立てたり、
奉公衆とは別に創設されていた足軽衆の整備が図られた
明智光秀も元は足軽衆の出身であったと考えられている

明智・細川・松井などは
明らかに幕臣だった者と一緒に配属されている。

一つには、秀吉が主君だったという説もある
蜂須賀小六を部下にして
うまくやっていたから、かも知れない。
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