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真のジャーナリズムがここにある!
裏社会の垂れ流す大本営発表に騙される事なく真実を直視せよ!社会全体の実際の仕組みを教えます。 三千年の歴史からも解き明かします。
DATE: 2020/08/30(日)   CATEGORY: 戦国無双4 Empires
明智光秀が織田信長と出会うまでの嘘
 後世の創作では斎藤道三に仕えていた事にされてるが
 本当は幕臣で細川藤孝の配下だった事が
 多聞院日記やルイス・フロイスの日本史で分かる。

 土岐氏が斎藤道三に実権を奪われて以降、
 美濃斎藤に臣従していたわけではない。

 先祖の時点で土岐氏に背いて
 六角氏を頼り近江に逃れていて
 光秀は近江で産まれたという説もある。

 また本当は明智ではなかった
 とか、明智光安は遠山景行とか、筒井順慶は弟とする
 諸説・俗説?も多いようだ。
 喜多村系図、宮城系図、山岸系図など。

 そもそも、叔父の光安や父の光綱の実在は証明されていない。
 土岐明智氏は1502年には消えているとの指摘も。
 恵那郡明智は遠山姓明智氏の領土。
 可児郡明智八郷は石清水八幡宮領。
 「時は今 雨が下しる 五月哉」を土岐明智と結びつけて
 謀反の意志と解釈したのは秀吉ではなかったかと。

 また光秀と懇意だった吉田兼見の日記の
 光秀の妹・妻木の記述から逆算すると
 1540年以降に生まれた事になるそうだが
 何しろ日記は本能寺の変以降、改竄版が
 正式版という事になっているせいで真相不明。

 (ちなみに、秀吉の妻の叔父である杉原家次の
 が堺に入った家康一行に付き添いとして随行
 していたという記録が本願寺顕如の祐筆が
 書いた日記にあるが、杉原の記録も
 本能寺の変から消えているそうだ。)

 大河ドラマ「麒麟がくる」もあるので詳しく見ましょうか。

 後世の「当代記」によると光秀は1516年生まれ、
 同じく「明智軍記」によると1528年生まれ。
 だが1516年だとフロイスに老人と
 呼ばれている村井貞勝より年上となり不自然。

1516年産まれだと、ガラシャ誕生時は47才、十五郎誕生時は53才。
んー、かなり無理があるかなと。

1528年生まれだと、ガラシャ誕生時は35才、十五郎誕生時は41才となる。
少々、不自然かと。

 仮に1540年生まれとすると
*0才からはじまる現代式の計算と
 誕生日を考慮せず正月で加齢する数え年式の合成ですが
1541年1才 土岐頼満が急死。斎藤道三に毒殺された?
1548年8才 濃姫13才と織田信長14才の結婚
1552年12才 斎藤道三が揖斐北方城の土岐頼芸を再び尾張へ追放し美濃平定
1556年16才 斎藤道三が子の義龍に敗れ死亡
1560年20才 桶狭間の戦い。 今川配下の家康は17才
1563年23才 玉(のちのガラシャ)誕生
1565年25才 足利義輝29才が殺害された。弟の義昭は
 細川藤孝にともなわれ逃亡。
ちなみに多聞院日記は
 1550年8月から1565年7月末までの記録がほぼ欠落して
 いるため義昭の動向がはっきりしていないらしい。
1566年26才 細川家臣の医者の米田文書の写本成立。
 高嶋田中城に籠城した光秀の話が載っている。1565年頃の事かと。
1568年28才 越前で元服した足利義昭31才の上洛に関わる
1569年29才 三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲。
 その際の防衛側で信長公記に初登場。
 嫡男の十五郎(光慶?)が生まれたのもこの年。
1570年30才 浅井長政25才の裏切りで金ヶ崎の撤退。
 『武家雲箋』所収一色藤長書状によると
 秀吉と共に光秀もしんがりを努めたそうだ。
 この年、細川藤孝の従弟の吉田兼見の日記に
 光秀が初登場。既に親しく、石風呂に入れた話

1573年33才 足利義昭36才が挙兵。藤孝、光秀らは織田配下に。
 この年、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の光秀書状あり

1576年36才 石山本願寺との天王寺の戦い。過労で倒れ療養。
 正室の煕子が坂本城で病死。この年、秀吉は信長の四男
 於次丸7才を養子に欲しいと願い出、79年頃には実現。

1578年38才 信長の命で玉(ガラシャ)15才が細川忠興15才と結婚

1579年39才 かつての主君の細川藤孝らと共に丹波・丹後を平定。
 この頃、秀吉は上月城攻防の末、宇喜多を従えたが
 摂津の荒木村重の寝返りなどで毛利攻めは一時中断

1580年40才 丹波一国の領主に。
 寄騎として細川藤孝46才、筒井順慶31才らが配属される。
 松井康之30才などは臣下だった光秀の配下になる事を嫌がっていたらしく
 秀吉はそういった事情を分かっていて細川・松井に接近、調略したらしい。
 また勝手に三好と同盟し、光秀の長宗我部との同盟を破綻させた・・・
 という説もある。それに対し、秀吉の甥(のちの秀次)は本能寺の変の
 前には三好の養子になってなかったとする反論もある。

 この頃、秀吉は2年にわたる兵糧攻めの末、別所長治を下したが
 竹中半兵衛を失うなど苦戦している。石山本願寺攻めのせいで
 一向宗徒の多い播磨国人の反乱に苦しみ、毛利と挟まれ窮地に
 陥り、調略の名手である自分が天下人になった方がうまくやれるのでは?
 と考えたのではないかと推測する人もいる。

1582年42才 織田軍が四国へ渡海する予定だった6月2日の早朝、
 本能寺の変を決行も、山崎の戦いで秀吉45才に敗れ死亡。
 信長の四男13才が養子で毛利攻めに同行していた事も秀吉に有利に。
 全て計算づくかと。

肖像画も、40才前後の方が54才とか66才とかより近いのではないかと。
普通は晩年のが残ってるもので。出世途上の若い頃よりも。

なお『明智軍記』では3男4女、『鈴木叢書』所収の
「明智系図」では側室の子も含めて6男7女があったとするが
はっきりしてるのは玉=ガラシャと十五郎だけで、
十五郎の諱は明らかではないらしい。

今後もドラマ撮影はあるのだろうから
役者さんはフィクションと割り切ってやった方がいいかも知れないけど。

もともと細川の家臣であったのを隠し、朝倉に10年仕えてたなどと
すると話が不自然という事。比叡山焼き討ちなども
実際は細川のやった事を織田に転嫁してる可能性すらある。

細川政権(戦国時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E6%A8%A9_(%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3)
「細川政元が管領職を独占して幕府の実権を握り、比叡山延暦寺を焼き討ちするなど各地で反抗勢力を攻めたり細川氏の被官としたりして勢力拡大を図り、京兆専制を打ち立て細川氏の全盛期を築くこととなった。 」

なお、調査の結果、炎上したのは根本中堂だけで、山全体であるかのような記述は間違いである事も分かっている。

比叡山焼き討ち
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1
比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)とは、比叡山を中心とした地域(延暦寺、日吉大社、門前町の坂本などを含む)に対して行われる焼き討ち。
足利義教が行った比叡山攻撃とその後の根本中堂自焼(1435年)については足利義教#延暦寺との抗争もしくは延暦寺#武家との確執を参照。
細川政元が行った比叡山焼き討ちは、比叡山焼き討ち (1499年)を参照。
織田信長が行った比叡山焼き討ちは、比叡山焼き討ち (1571年)を参照。
ちなみに比叡山自身も他山をたびたび焼き討ちしている。

信長公だけが特別に悪いみたいに吹聴する連中が
いかに不公正か。教科書がいかに権力に媚びているか
という事を知っておくべきでしょう。

そして、誰の都合なのか考えてみるとよい。

ちなみに「信長公記」の成立は江戸時代初期と
考えられており、著者である太田牛一は
本能寺の変の後は秀吉に仕えているし
子孫は秀吉家臣の青木一重、藤堂高虎、
加賀の前田利常などに仕えている事、
前田は千利休一味のキリシタンの
高山右近をかくまっていた事、
また配下の佐々成政の子孫という者が公安で
知り合いの重信と娘と自作自演ぽい事件を
起こしている事なども考慮すべきではないかと。
https://ameblo.jp/http-aplzdus/entry-12264100501.html
それにもちろん、戦中の総理が近衛文麿で
その右腕が細川護貞だった事も、
「通説」が細川と明智光秀の関係を隠し
細川の悪行の数々を隠している事も、
細川もキリシタン利休の一味である事もね。

教科書が教えない
応仁の乱以降の畿内史
http://blog.livedoor.jp/rekishi_/
最後は暗殺されたが
実は暗殺の鬼だった足利義輝

土岐康行の乱 1390年 南北朝時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E5%BA%B7%E8%A1%8C%E3%81%AE%E4%B9%B1

土岐西池田家頼忠・頼益父子は
室町幕府に味方して康行と戦った

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E7%9B%8A
応永6年(1399年)の応永の乱では頼益は幕府軍に加わって和泉堺へ出陣していたが、従兄の土岐詮直(康行の従弟で乱後没落していた)が大内義弘に呼応して挙兵し、美濃へ乱入した。頼益はただちに兵を返して詮直を打ち破っている。
頼益は義満と4代将軍足利義持から信任され、応永8年(1401年)に評定衆に列し、応永10年(1403年)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、幕府七頭の一家となり、同年に侍所頭人、宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた。
一方、本国美濃では古くから土着している土岐氏庶流の多くは西池田家が主流となったことに反抗的で、頼益は統治に苦労し、外様の国人の富島氏を守護代に重用するようになった。頼益の時に目代の斎藤氏が被官となり守護代となっている。

奉公衆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%85%AC%E8%A1%86
義昭は織田信長の支援で15代将軍になったが、
義栄に味方した奉公衆の多くは追放されたために
安見宗房のように新たに奉公衆に取り立てたり、
奉公衆とは別に創設されていた足軽衆の整備が図られた
明智光秀も元は足軽衆の出身であったと考えられている

明智・細川・松井などは
明らかに幕臣だった者と一緒に配属されている。

一つには、秀吉が主君だったという説もある
蜂須賀小六を部下にして
うまくやっていたから、かも知れない。
(実際は豊臣秀長が間に入っていたらしいが。)

歴史の実際の流れを見ていると
明智らは儀礼・作法などに詳しいため
畿内・近辺にとどめ置かれたはずで

毛利を倒したらその領地を与えられ
さらに九州方面に向かわされる事を
危惧していたのは秀吉ではなかったかと。

 ちなみに柴田勝家・前田利家・佐々成政らは北陸方面。
 関東・東北方面は滝川一益が総司令官。

秀吉は家康を三河・駿河などの120万石から
関東240万石に加増した際、名目上は栄転だが
本音では中央から遠ざける左遷のつもりでいた。

フロイスの織田信長評
『良き理性と明晰な判断力を有し、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、戦運が己に背いても心気広潤で忍耐強かった。困難な企てに着手するに当たっては、はなはだ大胆不敵であった。対談の際に遅延することやだらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の家来とも親しく話した。人の扱いには極めて率直で、自らの見解には尊大であった。ほとんど家臣の忠言に従わず、一同から極めて畏怖されていた。万事において人々は彼の言葉に服従した』

フロイスの豊臣秀吉評
『彼は自らの権力が順調に増していくにつれ、それまでとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。家臣に対しても極度に傲慢で、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者はいないほどであった。彼はこの上もなく恩知らずであり、自分に対する人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、最大の功績者を追放したり恥辱をもって報いるのが常であった。彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって彼を残酷で嫉妬深く不誠実な人物、欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は本心を明かさず、偽るのが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた』
朝鮮出兵の頃の秀吉
『諸大名が関白に対して抱いていた恐怖心は極めて大きく、もし一人が謀反を敢行した場合、その者は全員から直ちに見放されてしまう。諸大名は互いに胸襟を開き親交を結ぼうというような信頼感をまったく持ち合わせておらず、自分が胸中を打ち明けた相手によって訴えられはしまいかと極度に憂慮して、誰一人として動こうとはしないのである』

フロイスの明智光秀評
『 彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついにはこのような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二カ国の国主に取り立て、信長がすでに破壊した比叡山の延暦寺の全収入とともに彼に与えるに至った。』

こういったものは検索すれば出てくると思うが
何故か「徳川家康」「細川藤孝」「近衛前久」
などで検索しても、出てこない。

そこだけ都合よく焼けてるなんて事があるのかね?
翻訳を避けたと思われても仕方ない。

完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変
 ―織田信長篇(3) (中公文庫)
のレビューを読むと、
「翻訳者・出版社が多数の章を飛ばして
編集してしまったために、本能寺の変以後の
動きがよくわからず」
と書いていらっしゃる人もいる。
国内では邪悪な権力者が歴史を偽造
していても、海外に残っていたりする貴重な
ケースがあるものだが、それを翻訳させまい
とする輩もいるという事だろう。
沖縄からの日系ブラジル移民など
正直なネイティヴ日本系の人に
ポルトガル語の原書を読んでもらって
真相を知りたいものだ。・・・いや
原書そのものが消失してて
写本をつないで出版した本が
ポルトガル語らしいんだけど。
わざと燃やした可能性もあるね、
家康・藤原・細川・毛利などと
つるんでる東インド会社などの都合でね。

ちなみに
完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3)
のレビューには
「いちおう宗教史として書かれた書物であるにも関わらず、
ヘタな軍記物より遥かに面白いのですから、
フロイスの表現力と文章構成力は大したものだと思います」
という評価があり、
完訳フロイス日本史〈5〉「暴君」秀吉の野望―豊臣秀吉篇(2)
のレビューには、
「織田信長とか秀吉とかリアルに、その人となりが伝わってきます。
歴史書などで読むのとは全く違う世界感が伝わります。ロマンがあります。
是非どうぞ。 」とある。

「秀吉は指が6本」
「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」というような
話もあるらしい。ただ反日韓流系出版社から本を出してる方が
書いてる事なので、著者は立派そうではあるが
そちらは勧めない。

細川・近衛に注目する人は少数かも
知れないが、家康について書いてある
のに読者の誰もふれてない、なんて事ある?
あるいはグーグルとかにはじかれる?
いずれにしても、不自然だよね。

もともと焼けてるのなら
わざと焼いたのだと見るのが順当かと。

戦国無双4 Empires 主な武将 一覧
http://cyrus2.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
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